ジブリ作品の中でも非常に人気の高い作品である「千と千尋の神隠し」。
この作品は日本人ならば数多くの人が視聴をしたことがあるものだとは思いますが、一人謎を多く含んだキャラクターが存在します。
それが「カオナシ」。
このキャラクターについて考察をしていきいたと思います。
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「カオナシ」・・・。
半透明な存在であり、他人を飲み込み、手からは土塊から金塊を生み出すなどの錬金術のような魔法を使うことが出来るキャラクター。
このキャラクターを考える上でまず外せないのはその名前です。
「カオナシ」=「顔無し」
という方程式が成り立つように感じます。
顔が無いというのは、どういうことなのでしょうか。
無個性の塊
単純に考えて、顔が無いというのは「無個性」を象徴しているように思います。パッと人を見た瞬間に誰なのか判別できるのは、人それぞれ顔が違っているからに他なりません。
ガタイの良い人、背の高い人などがいるかとは思いますが、やはり見た瞬間に人を判別するパーツは顔だと思います。
それが無いという名を付けられたキャラクターが「カオナシ」。
つまり「無個性」の塊だと捉えることができます。
それを象徴するかのように最初はおどおどした印象しかないカオナシですが、カエルや番頭の人を食べるごとに「声」を手に入れ、自分の欲望を強く押し出してきました。
「無個性」のキャラクターが人それぞれが有している「個性」を手に入れた瞬間です。
じゃあ、「無個性」のキャラクターを描くことによって宮崎監督は何を表現したかったのでしょうか。それが次の見出しにつながると個人的には考えています。
自分の意見を待たない現代人の象徴
現代は情報社会です。
たくさんの情報にまみれた生活を送り、我々はその中から正しい情報と正しくない情報を判別して生きて行かなければいけない状況に追いやられています。
こうして誕生するのが、情報のみに目を向けた自分の意見を持たない人間です。
現代の就活事情何か見てもゾッとする光景が広がっています。
当たり前のように行っているものではありますが、一歩下がってその光景を目にしたとき、一体この集団は何をしているのだろうと感じてしまう瞬間があります。
女性のファッションにしても、誰かカリスマ的な存在がいるのではなく、ファッション誌が流行を作り上げ、それを「流行だから」という理由で何の疑いもなく購入し身に付けている人が多くいます。
流行に乗り遅れたら仲間内で何を言われるかわからない・・・そんな強迫観念にもかられるでしょう。
髪を染めるにしても、政治の支持に関しても自分の意見を持っていない人が多くいるのではないでしょうか。
これはもしかしたら昔のバブル世代にも当てはまることなのかもしれませんが、現代を形成する情報の社会による影響を皮肉的に取り上げ、作り上げられたのが「カオナシ」というキャラクターなのかもしれません。
実は、「千と千尋の神隠し」の上映時のパンフレットには「カオナシ」に関する説明書きが存在します。
そこには・・・
「他人の声を使わないと意志を伝えられない…主体性がない」
と書かれています。
まさに他人と同調するかのような存在であるように感じます。
他人を丸呑みし、声を手に入れて意見を発す売るようになり、肥大化していったカオナシと、情報にまみれた現代人を上手くシンクロさせて宮崎監督は何かを伝えたかったのでしょうか。
この「カオナシ」に関してはネット上でも数々の憶測を呼んでいますので、以下その諸説を紹介していきたいと思います。
資本主義が生んだ欲望の塊
自らの手から砂金を生み出すことができるというところから、こうしたイメージを持タラれているようです。
確かに砂金があれば人は群がりますし、それによって人望を集めることも可能です。そして同時に自分が欲しいものはその砂金によってすべて手に入れることが可能です。
そのため、「欲望の塊」を象徴しているキャラクターということですね。
「欲望」はいつの時代も人が超えなければいけない高い壁として存在し続けています。
一つの時代を作りあげたイエス・キリストでさえも例外ではありません。イエスの教えをつづった新約聖書の中でもイエスをそそのかすような悪魔的存在として「欲望」は描かれています。
しかし同時に、現代の根底にある「資本主義」という経済は、その欲望がなければ大きく発展しませんし、「欲望」を上手く利用した経済システムとも言えます。
闇のような存在であるとともに、我々の生活になくてはならない人を突き動かすような存在でもあるのです。
その明と暗を象徴するかのような出来事が「千と千尋の神隠し」上映当時に起こりました。
記憶にも新しい人が多いと思いますが、ライブドアの元社長である堀江貴文さんです。
堀江さんがもたらした利益は莫大なものであるとともに、やり方を間違えてしまって牢獄へ送られてしまいました。まさに「欲」というものが紙一重であるということを象徴したかのような事件でしたね。
さて、カオナシはどうだったでしょうか・・・。
手から砂金を生み出し、自分の欲望のままに周囲の人間を動かしましたが、本当に欲しかった千尋は見向きもしてくれませんでした。
カオナシが欲しかったものは富や権力、名声と言ったものではなく、たった一人の少女が気にかけてくれるかどうかということだったのです。
現代の時代背景を象徴するっかのように手から沢山の金を出して人々を意のままにあやつりながらも、真意は「千尋がほしい」という一心で、しかしそれを突き返すという千尋の姿・・・こうした背景によって何を描きたかったのでしょうか・・・。
現代の少女を象徴とする風俗嬢を描いたと言われている「千と千尋の神隠し」。
お金で千尋を買おうとしたカオナシを、千尋が突っぱねるなんてまさに何か逆説的な感じがして宮崎監督っぽいです。笑
そのため千尋は成長していく女性像の象徴になっているのかもしれませんね。
妖怪や幽霊のような存在
カオナシ=「顔無し」。
その「顔無し」という存在が地方の農村などでは、神様を侮辱したりいたずらをしたり、悪さをするとついてきたり、呪いをかけたりするという言い伝えのようなものがあるようです。
どうせ子供が悪さをしないように大人が作った作り話でしょ?と思うかもしれませんが、そんなに簡単に聞き流していいようなものでもないようで・・・いわゆる「神隠し」と呼ばれる類の話が存在しますが、それを引き起こしているのがこの「顔無し」だという話もあるのですね。
こうした伝承では顔無しがイタズラした人に対し恐ろしい呪いをかけ、その人の顔を奪いとってその人として人生をのっとって代わりに生きて行くと伝えられています。
「神隠し」でわかるように、タイトルとも関連づいた伝承話です。
古来の神話や宗教的な話に詳しい宮崎監督ですから、カオナシはこうした言い伝えから構想したキャラクターなのかもしれません。
まあしかし、ジブリと言えばトトロやオットコヌシ様のように非現実的なキャラクターが当たり前のように存在しているため、これだけでは少々物足りないように感じてしまうかもしれません。笑
っていうか視聴者的には宮崎監督のぶっ飛び具合に期待しすぎていて、それゆえに数多くの都市伝説が誕生してきましたから、こんな幽霊的存在という説では納得がいかないという現状があるのです。笑
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自分の居場所がないと感じている存在
これもまた現代社会を投影したかのような説です。
カオナシは橋や番台などに立っているシーンは描かれていますが、周囲の人々は全くその存在に気づいていないません。これは意図的にカオナシ自身が気づかれそうになると透明になっているからかもしれませんが、そんな中
「そんなトコに立ってると、雨に濡れますよ」
と、千尋から優しい言葉をかけられます。
ここで「自分の居場所が見つかるかもしれない」と感じたカオナシは千尋について行こうとして、千尋を求めるようになりました。
上記の諸説ともリンクしますが、自分の居場所を確保するために周囲の意見に同調し、いつしか自分の意見や存在そのものまでも希薄なものになっていっているように思います。
私は男ですので、女子会というものは、「必死で周囲に合わせることができるようにする会」というものに見えて仕方ありません。笑
上記記載のファッション事情に関しても、必死に自分の居場所を壊さないようにした結果ですよね。
学校などに関しても、イジメの対象が他に移ると前にイジメられていた人が他の人をイジメだすなんてことはよくある話です。酷な話ですが、これもまた自分の居場所を作れない人が新たにできた自分の居場所を必死に守った結果ですね。
周囲に溶け込めないと生活しずらいというのは正にその通りだと思いますが、それがいつも正解だとは限らないのかもしれません。
カオナシはやがて、自分の居場所を得るために、俗物的なやり方しか知らず常に仮面をかぶって砂金を周囲にまき散らし、自分の存在を強く強くアピールするようになりました。
自分の色がない=顔がない=カオナシ
のような感じでしょうか・・・。
顔無し=サタンである
これはこちらの記事に詳細が記載されています。
この根拠はこちらの画像も関係しています。
わかりますかね?
見切れてはいるのですが、左側に「サタン」って文字が出ているんです。
おそらく街に存在する店か何かの看板に書いてある文字という設定なのだと思いますが、動画で見たら読み取れないようなほんの一瞬です。
この一瞬、誰も気づかないような一瞬に「サタン」という文字を入れる必要性は何かあったのでしょうか?
おそらく、これにはこの記事で最初に上げた説である「カオナシが欲望の塊」である=「キリストなどをそそのかした悪魔」というものと繋がっていると思います。
そして、そうした存在であるということのメッセージを、この「サタン」という文字を映り込ませたあたりから急激に登場させています。
まず一つは銭婆とあるために降りた駅は何番目の駅だったでしょうか?釜ジイがやたら連呼していましたよね?
「6つ目の駅」。
「6」はよく悪魔の数字だと言われます。
そしてその6つ目の駅の名前は?
「沼の底駅」。
聖書では、サタンが最後に行きつく場所が「底知れぬところ」。ここで1000年間もの間封印をされることになります。
これはヨハネの黙示録に記載されているものです。
つまり「沼の底」=「底がないようなところ」=「底知れぬところ」という感じで繋がっていくということですね。
非常に面白い見解です。
神話に詳しい宮崎監督がサタンと言うわかりやすい存在を作品のアクセントとして起用したのでしょうか。
以上のように観る人によってカオナシの正体というのは様々な意見があるようですね。
宮崎駿監督が『「千と千尋の神隠し」を読む40の目』で語ったインタビューの内容には
と言うものがありました。
カオナシは初期設定では、端に立っているだけの存在だったそうですが、物語を構成していくうえでどんどんとその立ち位置が変化していったものと推察されます。
「千と千尋の神隠し」という作品は、当初大規模なアクションシーンが入った作品として考案されたという話も存在します。しかし、アクションは制作費がかさみますし、その構想を進めると3時間を超えてしまう超大作になってしまうということで、カオナシと言う脇役がメインに繰り出してきたという流れのようです。
だって、カオナシの初期設定ってこれなんです。笑
超イケメン・・・。笑
ここから、よりストーカーらしくデザインが変更され、仮面に黒ずくめと言う王道のようなストーカーが誕生したのです。
以上のことからカオナシに関してはキャラクターが作られた段階ではそんなに深い設定はなかったのではないかとも考えられます。だからこそ、いろんな意味合いを持ったキャラクターとして不思議な存在感を放っているのかもしれません。
見る人が変わると、その存在意義さえも変わってしまうようなカオナシ・・・。
そして、最後に・・・監督はカオナシに関して
と述べています。
我々を取り巻く周囲の人間、つまり自分も含めた現代人を象徴したキャラクターであることは確定的な模様です。
さて、それが欲望を象徴しているのか、情報にまみれた無個性の人間を象徴しているのか、自分の居場所を必死に守ろうとしている存在を象徴しているのか・・・答えは見た人自身が感じたことなのかもしれません。
ジブリ作品の奥深さを感じさせてくれる非常に素晴らしいキャラクターの一人ですね。
信じるか信じないかは、あなた次第。
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